蜜の流れる機械HP

The
killer
from
69
小倉蛇
(Hebi OGURA)
プロフィール

PISTOL CONTE

電動アンドロギュヌス

 電話が鳴り出した。
 片山は受話器を取った。
「はい、こちら片山探偵事務所」
「おれだ」電話の相手は早口に囁いた。
「誰だ?」
「おれだ。井谷だよ」
「何だ、お前か」
「頼みがある」
「おれが探偵だってことは憶えてるだろうな?」
「だから頼んでるんじゃないか」
「ならいい。仕事をすれば料金が発生するからな」
「友だちだろう」
「そうだったかな」
「わかった。この仕事が上手くいけば大金が入るんだ。いくらでも払う。今まで借りた分もふくめてな」
「しかし、お前の仕事が上手くいったことがあるか?」
「ふざけてる場合じゃない。おれは追われてるんだ」
「ふむ、貸しがあることを憶えていたのは感心だ。何をして欲しいんだ?」
「お前の事務所の下はガレージになってたな?」
「ああ」
「そこを空けて待っててくれ」
「おれの車が入ってる」
「しばらく他所へ停めておけよ。すぐ出て行くから」
「わかった。それだけでいいのか?」
「ああ、十分ほどでそっちへ着く。おれが入ったらすぐシャッターを降ろせるように準備していてくれ」

 片山はガレージから自分の黒いジュークを出した。彼の事務所は芝浦の埋立地にあり、路上駐車する場所には困らなかった。車を停めて、歩いて事務所の下のガレージへ戻った。
 自称“情報屋”の井谷と知り合ったのは三年ほど前のことだった。ある事件の調査で同じ対象を追っていて協力するようになったのがきっかけだった。以来、片山が井谷の情報収集を助けてやったり、片山の張り込みや尾行の際に井谷に手を貸してもらったりということが何度かあった。井谷は時に儲け話があるともちかけてくることもあったが、そんな話はいつもろくな結果にはならなかった。
 しばらくすると白いマークUが猛スピードで近づいてきた。急ブレーキをかけながらガレージに飛び込んだ。危うく奥の壁に激突しそうになりながら、紙一重で停止した。
 運転席から井谷が喚いた。「シャッターを閉めろ、はやく!」
 片山はシャッターを降ろした。暗くなったので照明を点けた。
「ふう」井谷はため息を吐いていた。
「どうした、誰も追ってきてなかったぞ」
「一応まいてきたからな」
「で、どうするんだ?」
「預かってほしい物がある」
 井谷は車の後部に回りトランクを開けた。
 そこには大きな昆虫の蛹のようなものが収められていた。人体ほどの大きさで白いシーツが巻かれている。
 よく見ると、シーツの間に白くこわばったような手が見えた。女の手だ。
「おいっ、これは!?」
「ふふん、死体だとでも思ったか?」
 そう言うと、井谷はシーツを解きはじめた。
 全身があらわになるとそれは、精巧に作られた女の人形だった。光の加減によってはまるで生きているように見えるほどだった。
「何だ、これは?」
「ダッチワイフだよ」
「それにしちゃ、よくできてるな」
「ああ、多分特注品だろうな」
「どこで手に入れたんだ?」
「錦糸町におれの行きつけのキャバレーがあるんだがな、そこのホステスが愛人だったある男からこいつを預かっていたと言うんだ。だが、その男が少し前に交通事故……ひき逃げらしいんだが、それで死んじまったんだ。で、処分に困ってたんで、おれが引き取ってやることにしたわけ」
「死んだ男のダッチワイフなんかどうするんだ?」
「いやそれがな、その男は、月島で町工場を経営してる社長らしいんだが、表向きは愛人てことでそのホステスをマンションの一室に住ませておきながら、彼女にはいっさい手を出さず、ダッチワイフに会うために月に一、二度その部屋へ通ってきてたと言うんだ。社長が来たときは部屋から追い出されちまうんで、女も実際のところ社長が人形相手に何をやってたのかは知らんらしいがな。まあ、要するにその女、愛人というよりはダッチワイフの世話係だったてわけだ」
「いろんな趣味のやつがいるな」
「本題はこれからだ。おれがこのダッチワイフを引き取った翌日、その女の部屋に空き巣が入ろうとしたらしい。彼女が店に出ていて留守の間に、ピッキングでドアを開けようとしていた男がいて、たまたま隣室の住人に見られたために逃走したそうだ。さらにその翌日、女の所へ男の声で電話があって、ダッチワイフを渡せと要求された。彼女はもう自分の所にはないと告げると、誰に渡したか教えろと相手に言われて、はじめは断ったが脅迫的なことを言われて、おれの名前や住所など洗いざらい教えてしまったんだ。そのことを彼女はおれに知らせてきた」
「その空き巣もこのダッチワイフを盗むのが目的だったわけか?」
「ああ、その可能性が高い。そして今日になって、おれのところへも男から電話があった。ダッチワイフを買い取りたいと言うんだな。値段を付けさせると、いきなり十万と言い出した。こりゃあ何かよほどの裏があるなとおれは思ったよ。そこでこっちは百万だ、それ以下では売る気はないと言ってやったんだ。するとそいつはな、じゃあ百万もって今すぐ来ると言う。まさかと思って窓から見ると、ちょうど怪しげな黒いコートの男がマンションの入り口にはいって来るところだ。おれはやばいと思って、ダッチワイフを担いで非常階段から逃げ出したんだ。駐車場から車を出すところを見つかって向こうも追ってきたが、こっちはあの辺は裏道まで知りつくしてるからな、上手くまくことができたんだよ」
「なぜ逃げるんだよ。素直に百万もらっときゃあ、丸儲けじゃないか」
「ばか言うな。いきなり百万もの金を出すなんて、話が美味すぎるじゃないか。こいつの持ち主の社長はひき逃げで死んだと言ったろう。おれも殺されるところだったんだよ」
「ふうむ……、このダッチワイフをそうまでして手に入れようとする理由は何だ?」
「それをこれから調べるんだ」
「手掛りはあるのか?」
「ああ、阿佐ヶ谷に、もう引退してるんだがダッチワイフ作りの名人だった爺さんがいるんだ。これほどの品なら、その爺さんが何か知ってるかもしれない」

 井谷はマークUに乗ってガレージを出て行った。
 片山はダッチワイフを事務所に運び込んだ。とりあえずテーブルの上に寝かせシーツをかけておいた。
 今日のところはとくに仕事もなかった。コーヒーを淹れて、テレビでも見ることにした。電源を入れ、リモコンでチャンネルを変えた。
 部屋の中で何かが動いた気がした。
 見ると、ダッチワイフの腕の角度が変わっていた。
 もう一度、チャンネルを変えると、たしかにダッチワイフの腕が動いた。リモコンの赤外線に反応しているようだった。
 リモコンのボタンを順に押していくと、関節がつぎつぎに動き出した。一緒にテレビも反応してしまうので、テレビの電源を切った。
 あらためてリモコンを操作すると、ダッチワイフは糸の絡んだ操り人形のようなポーズになった。そのうちに操作のコツがわかってきて椅子の上に行儀よく座らせることができた。

 午後四時すぎ、井谷から電話があった。
「たすけてくれ。不味いことになった」
「どうした?」
「殺し屋に追われてる」
「殺し屋!?」
「おれのマンションに現れたやつだ。撃たれそうになった」
「今どこにいる?」
「環七沿いのレストランだ。やつも店内にいる。人目のあるところで銃を使う気はないようだが、ここから動けない」井谷は店の詳しい場所を教えた。
「わかった。そこで粘ってろ」
 片山はジュークを出して環七へ向かった。
 井谷のいるレストランはすぐに見つかった。
 店の前は大きな駐車場になっていて車が点々と停められている。殺し屋がその気ならここで発砲して、人に見られず逃げることも可能だろう。
 片山はレストランに入り井谷を見つけた。向かいの席に着いてコーヒーを注文した。テーブルの上にはサンドイッチが出されていたが、井谷は一口かじったきり手を付けていなかった。
「殺し屋っていうのはどいつだ?」
「シッ」と井谷は声をひそめた。「あそこの黒いコートのやつだ。カレーライスを食ってる」
 片山はその方向へチラッと視線を走らせた。ちょうど同じタイミングでこっちを見た殺し屋と一瞬目があった。
「あいつか。ありゃカレーライスじゃないぞ。ハヤシライスだ」
「どっちでもいいよ。そんなの」
「何でこんな所へ逃げ込んだんだ?」
「やつはおれが阿佐ヶ谷の名人に会いに来るだろうと読んでたんだな。それで帰り道を待ち伏せして、追い抜きざまに撃とうとしやがったんだ。こっちも気づいてスピードを上げたんでその時は助かったが、やつもすぐ追い上げてくる、赤信号にでも引っかかればその場でズドンだと思ってヒヤヒヤしたぜ。そのうちここの入り口の少し先に白バイが停まってるのが目に入った。制限速度はとっくにオーバーしてたんで、あわててここの駐車場へハンドルを切ったってわけさ。殺し屋も後について入ってきた。さすがにすぐ先に警官がいる所で撃ってくる気はなさそうだったが、しかし白バイがいつまでそこに留まっていてくれるかわからないだろう。だからすぐこの店に駆け込んだんだ」
「おれが来たときは、白バイは見かけなかった」
「ああ、もういない」
「やつが銃を持ってるなら、警官に助けを求めればよかったじゃないか」
「警官に近づけば、やつは無茶をしてでもおれを撃って逃走しただろうよ。それにな、じつは、おれも拳銃を持ってるんだ、護身用にと思ってな。それでなるべくなら警察には関わりたくない」
「だったらそれを使えよ」
「こっちは運転しながら撃てるような腕前じゃない」
「拳銃なんかどこで手に入れたんだよ」
「質屋で買ったんだ。知り合いの質屋なんだが、強盗に入られて、その強盗が金を受け取ると、質草がわりだと言って拳銃を置いていったんだと。それを押し付けられたんだよ」
 店員がコーヒーを持ってきた。殺し屋がその店員を呼びとめ、ハヤシライスのおかわりを注文していた。
「で、ダッチワイフ作りの名人には会ったのか?」
「ああ、いろいろ聞かせてくれたよ。あのダッチワイフはやはりその名人、多田山というんだが、彼が作ったものだそうだ。もっとも多田山が手がけたのは外見や皮膚の質感といった外側の部分だけで、内部の機械仕掛けは持ち主だった会社社長が作ったんだ。つまり二人で協力してあのダッチワイフを完成させたってわけだ」
「ひき逃げで殺されたっていう町工場の経営者だな」
「そう、その社長、名は大幡といって、ある日、自分の会社で扱っている最新技術を組み込むことで究極のダッチワイフを製作できるんじゃないかと思いついた。そこで、かねてから名人としてその名を知られていた多田山に話を持ちかけたのが、そもそものはじまりらしい」
「社長の密かな道楽ってところか……」
「ああ、で、問題はその最新技術というやつなんだが、これがただ事じゃないんだ。大幡の町工場で扱ってるのは〈震動制御〉と呼ばれる独特のもので、この分野では世界中のどこの技術者でもここの水準には追いつけないと言われている。この〈震動制御〉というやつは強力なモーターなんかを動かしたときに出る震動を安定させるための技術で、鉄道や航空機の運用には欠かせないものらしい。その上、強風の中でミサイルの飛行を安定させたり、人工衛星からの信号をピンポイントで送ったりするのにも使われている。つまりこれは軍事技術にも転用されてるんだ。そんなテクノロジーの結晶が、あのダッチワイフの体内には詰め込まれてるってわけだ」
「じゃあ、あの殺し屋は……?」
「軍事機密を狙う外国のスパイだよ。世界中の諜報機関やテロ組織があれを狙ってるんだ」
「日本の小さな町工場が世界的にも最高レベルのテクノロジーを持ってるって話はよく聞くけどな。社長が道楽で始めたダッチワイフ作りにそこまでのものを使うのかね?」
「そりゃそうだよ。道楽ではじめたことが、かえって歯止めが効かなくなるってことはよくある話だ。じっさいおれは命を狙われてるんだからな」
「まあ、そうかもしれんがな」
「とにかく、ここからずらかる方法を考えようぜ」
 片山はゆっくりとコーヒーを口に運んだ。時計を見ると午後六時二十分、外はそろそろ暗くなり始めていた。
「相手は一人、こっちは二人だ」
「うん、どうするんだ?」
「ここを出たら、おれたちはまず左右に分かれる。殺し屋はたぶんお前を追うだろう」
「そうだな」
「もし、やつがここの駐車場でけりをつける気ならばだ、銃でお前を狙うだろう。そうしたらおれが背後からやつを牽制する。少なくとも狙いは外させられるだろう。その場でとっ組みあいになったら、お前も支援に来てくれ。二人がかりなら何とかなるだろ」
「よし、それで行こう」
 片山と井谷は席を立った。支払いを済ませ店を出た。
 殺し屋もすぐに動き始めた。ハヤシのおかわりは食べそこなったようだ。
 駐車場へ出て、井谷は右へ、片山は左へと進んだ。
 小走りに店を出てきた殺し屋は迷わず井谷のあとを追った。黒いコートの下から拳銃を取り出すのを片山は目にした。ソ連製の自動拳銃トカレフだ。
 立ち止まり井谷の背に狙いを定めている男へ片山は鋭く叫んだ。「おい、やめろっ」
 すると、殺し屋は銃口を片山のほうへ向けて引き金を引いた。
 銃声が響いた。片山は車の影に飛び込んだ。
 国道の騒音に紛れて、銃声は他人が気に留めるほどではなかった。
 トカレフを持った男が近づいてくる気配を感じ、片山は背を屈めながら隣の車の影に移動した。やばい、と彼は思った。予想していたよりも相手との距離が離れていた。彼は背後を襲えば銃を奪えるのではないかと期待していたのだが、こうなると撃たれないように逃げ回るのがやっとだ。並んだ車の間を縫うように必死で走った。車の列が途切れれば、もう身を隠す場所はなくなってしまう。
 井谷の姿は見えない。どうすればいいんだ……。
 そう思っていたところ、不意に白バイ特有のかん高いサイレンの音が聞こえてきた。こちらへ近づいて来るようだ。白バイは駐車場のすぐ外で違反車を止めドライバーに説教をしはじめた。
 殺し屋は拳銃を懐へ隠すと、停めてあったモスグリーンのボルボに乗り込んで、すぐに走り去った。
 片山は息を切らしながら、自分のジュークに寄りかかって、その場で座り込んだ。
 徐行しながら井谷のマークUが近づいてきた。
「無事だったか」井谷は言った。
「ああ」
「助けようと思ったんだがな」
「とにかくここを離れよう」

 二人は芝浦の探偵事務所へ帰りついた。
 敵に知られている井谷のマークUをガレージに入れた。
「こいつを使う機会はなかったな」
 井谷は運転席から拳銃を突き出して見せた。銃身の短いS&Wのリヴォルヴァーだ。
「見せてみろ」
 片山は拳銃を受け取った。用心鉄が切り取られていて引き金が剥き出しになっていた。指をかけるとカチンとハンマーが作動した。
「おい、気をつけてくれ。次は実弾が出るからな」
 シリンダーを振り出してみると初弾の発射位置だけカートリッジが抜いてあった。
「引き金が軽すぎるだろ。その上、用心鉄もないんじゃ危なくて持ち歩けないな」
「プロはこういう改造をするんだよ」受け取った銃をグローブボックスへ収めると、井谷は助手席に置いていたダンボールの箱を手に取り片山に渡した。靴でも入っているぐらいの大きさだ。
「何だこれは?」
「開けてみな。多田山老人からのみやげ物だよ」
 片山は箱を開いた。パッキンの中に埋もれていた紫色の物体を取り出す。
「これは……、バイブレーターじゃないか」
「電動こけしってやつだよ。ダッチワイフ職人てのはそういうものも手がけるんだな」
「これが何だっていうんだ?」
「多田山の爺さんの話だとそれが事件の謎を解く鍵になるらしい」
「これがか?」
「ああ、それも内部の機械は大幡が作ったそうだ。それで自分が不審な死に方をした時は、そのバイブレーターが犯人を知らせる鍵になる、とそう告げて爺さんに託したんだと。爺さんの方は、よけいなトラブルに巻き込まれたくもないというんで、あっさりおれに渡してくれたよ」
「大幡は自分が殺されることを予測していたんだな」
「そうだな。大幡製作所っていうのが大幡の経営している会社なんだが、以前から重役の中に社内の機密情報を外部に洩らしてる者がいるという疑惑があった。つまり産業スパイだな。社長の大幡は何とか自力でそのスパイの正体を突き止めたらしいんだが、決定的な証拠をつかもうと準備を進めているうちに、調査をやめなければ殺すという脅迫を受けるようになったと言うんだ。それで万一自分が殺された場合にスパイの正体を明かす手掛りとしてこのバイブを残したわけだ」
「鍵か……、鍵ということは、これを挿す鍵穴があるのか……?」
「そうか、わかったぞ。バイブを挿す穴といったらアレしかないじゃなか!」
「何だ?」
「あのダッチワイフはどこだ?」
「事務所にある」
 二人は二階の事務所へ行った。
 椅子に座ったダッチワイフを見て井谷は言った。「ん、どうやって座らせたんだ?」
「テレビのリモコンで動くんだよ」
「そんな仕掛けがあったのか。まあいい」
 井谷はダッチワイフをテーブルに載せると、脚の間にバイブレーターを挿入した。
「見ろ。ぴったりはまったぞ」
「それでどうするんだ」
「スイッチを入れてみよう」
 バイブレーターが振動しはじめると、ダッチワイフはびくんと反応し、痙攣をおこしたように震えだした。全身が脈打ち、白い皮膚がかすかにピンク色に染まった。まるで呼吸をし、血が通い出したかのようだった。
 やがて手足をばたばたと動かし始めると、犬のような四つん這いの姿勢になった。そして右手を振り、指で何かを摘まむような動作をくりかえした。
「何だろう」井谷が言った。
 ダッチワイフは右手を動かし出した。
「何かを書いてるようだ。ペンを握らせればよかったんだ」
 ダッチワイフは動きを止めた。そしてふたたび指で摘まむ動作をはじめた。
 片山は机からボールペンとメモ用紙を取って、ボールペンを右手に握らせ、左手で紙を押さえるようにセットした。ダッチワイフが文字を書きはじめた。六つの文字を記して動きを止めた。
「ハヤシライス……?」書かれた文字を井谷が読み上げた。
「ああ、そう読めるな」
「どういう意味だ」
「わからん、あの殺し屋もハヤシライスを食ってたが……」
「それとこれとどんなつながりがある?」
「わからん」
 もう一度バイブの挿入からくりかえしてみたが、やはり書き記されたのは「ハヤシライス」の六文字だった。
「ともかくおれたちは手掛りを一つ得たわけだ」と井谷は言った。
「ああ」
「おれは明日、桐原ってジャーナリストと会うことになってる」
「誰だそれは?」
「大幡製作所の産業スパイ事件について取材している男だ。ハヤシライスという一言に何か意味があるならそいつに聞けばわかるかもしれない」
「そうか」
「じゃあ、おれはいったん帰るぜ」
「大丈夫か、殺し屋に部屋を知られてるだろ」
「じつを言うと、出るときにあわてていて戸締りをしたか自信がないんだ。留守なのをいいことに部屋を荒らされても困るんでな」
「気をつけろよ」
「ああ、いざとなったらこっちにも銃があるからな。何とかなる」

 机の上で透明なカバーのついた金色の電話機が鳴っていた。
 片山は受話器を取った。
「はい片山探偵事務所です」
「もしもし」と女の声が言った。
「はい」
「あなたが片山さん?」
「そうですが」
「コバルトというバーをご存知かしら、浜松町駅近くの」
「ええ、知っています」
「そこへ来てください」
「えっ、しかし……」
「お待ちしています」
 相手は電話を切ってしまった。
 時刻はもうすぐ午後十一時になる。
 電話の相手が誰かは知らないが、片山はとにかくコバルトへ出向いてみることにした。
 たいした距離でもないので歩いていった。
 バー・コバルトは高速道路とモノレールの高架にはさまれた三角形の飛び地のようなところにぽつんと建っている小さな店だ。暗がりに青いガラスのドアだけが光を放っていた。
 店内には二組の客がいた。カウンターの中ほどにサラリーマンらしい二人が話し込んでいて、その奥には肩を寄せ合っているカップルがいた。
 片山は入り口近くのスツールに腰掛けた。
 飲み物を注文するついでにバーテンに尋ねた。「少し前に女の客がいなかった?」
「いや、今いる客のほかは誰も」という返事。
 サイドカーに口をつけながら待つことにした。
 しばらくするとサラリーマンの二人組が店を出て行った。
 ふと奥のカップルへ目をやると、いつの間にか男の姿は消えていて、はじめから一人だったという様子で女が座っていた。
 片山は女の横顔を見つめた。どこかで見覚えのある顔だった。だが、どこで目にしたのかは思い出せなかった。
 女が席を立ち店を出ようとした。
「あなた、私に電話をかけませんでしたか?」と片山は声をかけた。
 女は黙って首を振り、立ち去った。
 あとを尾けよう、と片山は思った。おれに電話してきたのはあの女に違いないという直感があった。
 店を出ると外は小雨が降りだしていた。
 女は駅とは反対の海の方へ向かっていた。人気のない倉庫街を急ぐ様子もなく歩いていた。白いコートの背を見ながら、片山は不意に女の顔をどこで見たのかを思い出した。あのダッチワイフだ。精巧に作りこまれたダッチワイフの顔貌が彼女とそっくりだった。
 雨は止みかけていた。前方にはうっすらと霧が立ちこめていた。
 白い霧は次第に濃さを増していった。やがて女の姿は見えなくなり、片山も霧に飲みこまれた。
 視界がまったく効かなくなった。ぼんやりと見える灯りに向かって手探りで進むしかなかった。ずいぶんと長い距離をそうして歩くうちに、やっと霧が晴れてきた。
 気がつくと目の前には見慣れない大きな屋敷があった。古びた洋館だった。女はこの中に入ったのだろうか。他にあてもないので、片山は玄関のドアへ歩み寄った。
 ドアはすんなりと開いた。内部は廃墟のように荒れ果てていた。
 奥の広間に女の背が見えた。片山は足を忍ばせて進んでいった。
 女はコートを脱いでいた。コートの下は裸だった。
 そこは崩れた床が傾いて水溜りになっていた。天井のあちこちから水が漏っていて、ピアノのような音色を響かせながら水面に波紋を拡げていた。
 女は冷蔵庫から大きな生肉の塊をとりだした。それを水溜りに投げ込むと、ばしゃばしゃと音を立てながら大きな鰐があらわれた。鰐は肉塊に噛み付き飲み込んでしまうと、また水中へ潜っていった。
 片山はさらに近づいて女に声をかけようとした。だが足首に何かが絡み付いて動けなかった。見ると、大量の電子部品の中に片足を突っ込んでいた。LEDがいくつも点滅していた。電子部品は靴を食い破ってめりこんでいた。ゾッとする感じ。
 これは夢だと気づいて片山は目を覚ました。そもそも透明なカバーの着いた金色の電話などというものは彼の部屋には存在しないのだった。

 午前九時すぎ。電話が鳴った。
「はい、こちら片山探偵事務所」
 片山がそう告げると、相手は何も言わず切ってしまった。
 間違い電話だろうか。それとも電話番号からこちらの名前を知ろうとしたのかもしれない。探偵事務所とわかれば、住所はすぐに調べられるだろう。
 井谷に電話をかけてみた。相手は出なかった。まだ寝ているか、あるいは移動中で出られないのかもしれない。伝言を残してしばらく待つことにした。
 二十分ほど経って、電話が鳴った。相手はこちらの知らない男だった。
「桐原というものだが」相手は言った。
「というとジャーナリストの?」
「そうだ。井谷って男と会う約束をしてたんだが連絡が取れない。何かあったらあんたにかけるように言われてたんだが」
「そうか。大幡製作所の事件について調べてるんだよな?」
「ああ」
「じゃあ、ひとつ聞かせてもらいたい」
「何だ?」
「ハヤシライス、この言葉が手掛りだとして何かわかるか?」
「ああ、一連のスパイ事件の最有力容疑者が林健一と言うんだ。この男、学生時代からハヤシライスが大好物で毎日のように食べてるって話だ。で、付いたあだ名が“ハヤシライスのケン”。今も親しい者のあいだではそう呼ばれてる。その手掛りはどこから得た?」
「いや、説明するのは難しいな」
「こっちも忙しいんだ。あとで詳しく聞かせてくれないか?」
「ああ、いいよ」
「それから、この林って男に関わるなら気をつけたほうがいい。某国のスパイ組織からトカレフを支給されている。やつらのやり口からすると、それで秘密を知ったものを処分させてから、亡命させるつもりだと思われる。井谷やあんたも危ないかもしれんぞ」
「わかった、気をつける」
「いずれ話を聞かせてくれよ」そう言って桐原は電話を切った。
 もう一度、井谷ヘ電話をかけた。やはり出ない。
 片山は両国の井谷のマンションへ行ってみることにした。

 マンションの前に車を停めた。
 エレベーターで五階へ上る。502号室が彼の部屋だった。
 インターフォンを鳴らし、ノックをした。応えはなかった。
 ノブを回すとドアが開いた。
 井谷は廊下に倒れていた。胸に二発の銃弾を受けていた。
 死んでいるのは明らかだった。
 廊下の奥に穴の開いた枕が投げ捨ててあった。サイレンサー代わりに銃口に当てて撃ったものらしい。
 井谷は靴をはいたままで、手には部屋の鍵を握り締めていた。
 部屋の中で待ち伏せしていた殺し屋に、帰宅した直後に射殺されたようだ。
 死体の横に携帯電話が落ちていた。先刻の無言電話は、この発信記録から番号を調べて片山の事務所へかけたものだろうか。
 井谷はベルトの腹にS&Wをはさんでいた。
 片山はそのリヴォルヴァーを自分の上着のポケットへ入れ、部屋を出た。
 近くの公衆電話から110番にかけマンション名を告げると、502号室に死体があるような気がするとだけ言ってすぐに切った。

 午後二時すぎ。片山探偵事務所のインターフォンが鳴らされた。
「お届けものです」来訪者は言った。
 宅配便のアルバイトにしてはずいぶん暗い声だった。
「ドアは開いてる。入ってきてくれ」片山は言った。
 入ってきたのは黒いコートの男だった。手にはトカレフが握られていた。
「ハヤシライスのケンか?」
「そうだ」暗い声で男は言った。
「そっちを見てみろ。あんたの探してたダッチワイフがある」片山は入り口からは死角になっている右側を指し示した。
「そんなものどうだっていいんだよ」
 そう言いながらも、殺し屋はそちらへ一瞬目を向けた。すぐに視線をひきつけられた。
 裸の美女が拳銃を握っていた。
 片山はリモコンのボタンを素早く押した。
 ダッチワイフの指が引き金を引いた。
 銃弾が殺し屋の心臓を撃ち抜いた。

(2012.06.10/2013.06.16改)

暗殺のポルノ

[index]