妙楽寺


 
等覚院裏の山道を登って行くと・・・?


等覚院の先にアジサイで有名な天台宗長尾山妙楽寺(神奈川県川崎市多摩区長尾3-9-3)があります。

梅雨の合間の晴れた日に、ちょっと遠出してアジサイ見物に行きました。


リンチャコの家のそばで「妙楽寺」と言っても、ピンとこない人がほとんどのこのお寺は、「アジサイ寺」

といえば「あぁ〜♪」とすぐにわかるほど、アジサイで有名なお寺です。

先代の住職が昭和42年頃から植えたアジサイは、本堂の周辺を中心に約1,000株以上も植えられて

いて、6月中旬〜7月中旬頃の花の見頃には、見事に咲き誇ります。

花の最盛期にはアジサイ祭りも開かれ、多くの見物客で賑わいます。


  
  
  
妙楽寺に咲き誇るアジサイ



この妙楽寺は、中世初期に存在し「吾妻鏡」に登場する威光寺と深い関係があります。

威光寺は長尾寺とも呼ばれ、平安時代初期の文徳天皇・仁寿年中(851〜4)に創建されたと

伝えられています。

慈覚大師円仁によって開かれた威光寺は、代々源家の祈祷所とされてきました。

源頼朝は、鎌倉幕府草創期に弟の全成(幼名今若丸)を威光寺院主として派遣し、領土を手厚く保護

した為、鎌倉時代初期の威光寺は大変隆盛を極めましたが、その歴史や詳しい所在はほとんど

残されてはいません。

威光寺が源氏に大切にされた理由は、源家の祈祷所であっただけではありません。

威光寺=長尾寺と同じ長尾山と呼ばれた現在の妙楽寺がある長尾丘陵は、幕府のある鎌倉の

外郭として、多摩川とその右岸丘陵を重視する軍事的な目的がありました。

鎌倉防衛の北の要の役割をになった威光寺でしたが、元弘3年(1333)新田義貞が北条氏と戦った

分倍河原の合戦では、この地がいかに重要なポイントだったかを証明しています。

しかし、幕府の滅亡によって威光寺も次第に衰微し、応永12年(1405)8月に梵鐘鋳造(ぼんしょう

ちゅうぞう)の勧進に関する記録を最後として、史上から姿を消しました。

この勧進文には、「武州立花郡長尾山威光寺」の表記があり、この事から「吾妻鏡」以降も威光寺は

長尾の丘陵に存在したと考えられます。

また、妙楽寺の土蔵に安置されている木造薬師如来両脇侍像と、日光菩薩像の胎内から発見された

墨書銘によると、これらの像は天文16年(1547)に作られたとあります。

この事から、16世紀中頃この地に威光寺が存在していた事がわかります。

また、これらの仏像は元々威光寺にあった物ですが、現在妙楽寺に伝世していたことからも、威光寺と

妙楽寺との間の因果関係が推察されます。

早くからこの北の要所が威光寺の所在地ではないかという説はありましたが、この銘文の発見によって

薬師如来両脇侍像が祀られていた威光寺が、少なくとも室町時代の終わり頃までこの付近に存在し、

威光寺の衰退と共に威光寺が所有していた幾つかの坊や付属寺院の一坊であった妙楽寺が、山号を

引き継ぐと同時に薬師三尊像も移安したと考えられます。

また、妙楽寺付近には、別所・堀の内・竹の沢等の中世地名や、五輪塔や板碑が伝世し、

渥美製大形甕(かめ)の一部が出土するなど、現在でも当時の様子が垣間見る事ができます。


 妙楽寺の鐘つき堂



妙楽寺には、昔から今へ伝わる薬師如来坐像と五趣生死輪図があります。

この宝物は共に市重要歴史記念物に指定されています。


薬師如来坐像は、胎内背面の墨書から永正6年(1509)9月の制作とされる48.0cmの高さを持つ像です。

この薬師如来坐像は、両脇に65.5cmの高さの日光・月光の両菩薩立像を従えたいわゆる3つの像から

なる薬師三尊像になっていて、ともに寄木造で玉眼を嵌入し、漆箔仕上げとなっています。

中尊は納衣を通肩に着し、膝上で定印を結び、その上に薬師の持物である薬壺をのせたスタイルで、

薬師如来の印相として一般的な右手施無畏・左手与願印を結ぶ作例に比べると、非常に珍しい様子を

しています。

このような作例は少ないのですが、同じような形状をしている像に、南足柄保福寺像(平安時代)や

鎌倉覚園寺像(鎌倉時代)があります。

今となっては、作者はわかりませんが大粒の螺髪・低い肉髻・動きを強調した衣文表現・顔の表情

・寄木の構造は、室町時代末期の宋元風の特徴がよく現れています。

両側の日光・月光菩薩立像は、各々日輪・月輪の形をした蓮弁形光背の台座を配しています。

やはり中尊と同じく中世宋元風の影響を受けた作風が窺えますが、日光菩薩像に比べて月光菩薩像の

彫技はやや硬く、その点から月光像は江戸時代の補造ではないかとの指摘もあります。

薬師三尊像は虫喰いや破損のため、長い間尊貌を損ねていましたが、昭和52年に当時の東京芸術

大学の本間紀男助教授により解体修理が行われ、その時日光菩薩像の胎内から、天文16年(1547)

駿河仏師によって作られたことが記された墨書銘が発見されました。

しかし、月光菩薩像からは銘文は発見されてはいません。

日光菩薩像の胎内からの銘文によると、薬師三尊が長尾山威光寺の仏像として造立されたことが

明記されていることです。

という事は、まず薬師如来像が永正6年に造られ、その38年後に脇侍像が補われ三尊像となったと

考えられますが、何らかの理由で月光菩薩像が紛失し、後の時代に月光菩薩立像は更に補われて、

今に至っていると考えられます。


五趣生死輪図は、明治25年(1892)に描かれた縦294.7cm 横173.2cmと大型の肉筆彩色画です。

この絵は、仏教の示す輪廻転生の思想とこの世の無常さを、わかりやすい画像で表現しています。

2本の角をもつ無常大鬼が、腹前に五趣生死を描いた大きな輪を抱き、上部には白色で虚空に浮かぶ

丸い円が描かれ、「涅槃円浄」と記されています。

五趣生死の輪は、中心に小円を表わし外輪と小円のあいだは五等分して、右上から順に天・畜生・

地獄・餓鬼・人間の各界の五趣を、小円中には定印坐像の一仏を配し、その周辺に鳩・蛇・猪を描いて、

それぞれ多貧・多瞋・多癡と註記します。

また、輪環をもつ無常大鬼の回りにも葬送の人々や、舟を漕ぐ人物など12因縁を中心に18種の図柄を

表わしています。

五趣生死輪図とは地獄絵の1つで、インドのアジャンター第17号窟にその痕跡をとどめ、現在でも

チベットやネパールなどの国々で流布しています。

日本では、12世紀初頭に奈良・興福院の中門に、この仏画と推定される図柄のものが懸けられていた

記録(七大寺巡礼私記)があります。

江戸時代末期、江戸駒込・西教寺8世沙門潮音が画工に命じて当図を作成し、人々の求めに応じ

木版刷りを刊行し、明治に及びました。

この絵は明治25年(1892)に、潮音の図を参考にして26日間で完成させた大作で、表装裏面に

作図の縁起が貼付されています。


   
日光菩薩像             薬師如来坐像            月光菩薩像         五趣生死輪図